クリスチャン2世がぐるぐると考える

クリスチャン2世の視点から結婚・信仰継承・両親との関係などについて書いています

一方的に与えられる、という恵み 2

教会でも、「やまねちゃんはしっかりしたクリスチャンだから、奉仕して当然」という雰囲気がありましたし、自分自身、奉仕をすることで教会に自分の居場所があるような気がしていました。

 

しかし、奉仕ができなくなってから、ただ礼拝に出て、メッセージを聞いて、祈ってもらって、皆さんの賛美を聞いて帰る、という完全に受け身の教会生活を送っているうちに、「ただ一方的に恵みを受け取る」こと、がどんなに大切なことか。今までの自分は、そのことをまるで知らなかった、ということに気づかされていきました。

 

よくよく考えてみれば、そもそもキリスト教の「救い」は、ただ一方的に与えられるものです。

修行を積んだから、善い行いを沢山したから、自分の努力によって救われるのではなくて、ただ、神様の一方的な愛と憐みによって救われる。そう聖書に書いてあるし、教会でも何度もそういう話を聞いているはず。

にもかかわらず、私は、何かの見返りとして愛や救いがあるような気になっていたのではないか。

聖書に書かれていることと正反対の考えを、無意識に持っていたのだなあ、と思いました。

 

 

 

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