教会に行けなくなったときのこと 3
この「何かが出来なければ自分は愛される価値がない」という考え方は、教会生活以外でも、私の心を支配していた考え方でした。
20年以上、この考えを土台にして生きてきましたから、やっぱり今でも、時々この考え方が復活してしまうことがあります。
でも、失業して体調を崩して、色々なものを失って、教会にすら行けなくなったことでぼんやり分かってきたのは、こんなに何もない、何もできない自分でもいいのだ、ということでした。
何かができるから愛されるのではない。ありのままの自分を受け入れてもらえる、ということは、こういうことなのか、と、感じました。
そして、イザヤ書の「私の目にはあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」という聖書の言葉が、心の奥深くに迫り、染み渡ったのは、この時が初めてでした。
普通に生活を送れるようになって数年後も、しばらくはこの時の事を思い出す度に涙が出てしまうような状態でした。
でも、少しずつ、気持ちを整理したり、思い出すことができるようになって、この時の挫折が私の人生にとって、すごく大切なことだったと思えるようになってきています。
「何かができる、できないという能力ではなく、存在そのものが肯定される」ことがどういうことなのか、ずっと分からなかった私に、神様が、それを教えようとされているのではないか。
教会に行けなくなったことで、自分と教会、自分と神様の関係を見直すことが求められているのだ、と思いました。