必ずしも「一所懸命奉仕すること=神様に喜ばれること」ではない1
私が奉仕について思うのは、必ずしも「教会のために一生懸命奉仕すること=神様に喜ばれること」ではない場合があるのではないか、ということです。
一見、この方程式は正しいように思えてしまいますが(教会でもこの考え方はまかり通っていると思いますが)
「教会のために一生懸命奉仕すること=何かを犠牲にしていること」でもある、ということです。
クリスチャンには暗黙のうちに「犠牲を払って奉仕をすることは美徳である」という雰囲気があると思います。
でも、その犠牲になる人や物ごとは、ほおっておかれていいのか?
それが本当にイエス様の言われる愛のある行動なのか?
「一生懸命奉仕する=自己満足・自己実現」
「一生懸命奉仕する=周りの目を意識して自分を守っている」
「一生懸命奉仕する=神様のためという思い込み」
という場合が、少なからずあると思うのです。
一見、教会のため、神様のため、であるように見えてしまうのですが、本当は自分のためにやっている、こともあるのではないでしょうか,,,