奉仕の犠牲になるクリスチャンホームの子ども4
父も母もクリスチャン1世でしたから、
「教会のために一生懸命奉仕すること=神様に喜ばれること」
だったのだろうと思います。
大人になり、客観的に考えられるようになって、「きっと父は一生懸命奉仕する自分の姿を子どもに見せたかった」のだろう、と思えるようになりました。
また、教会の奉仕をすることが、あまり趣味もない父の生き甲斐であったのだろう、とも思うのです。
でも、私はそんな父の姿をずっと見てきていたので、「クリスチャンと結婚はしたいけれど、奉仕に熱心な人は嫌だな。奉仕とか、教会のことにはあまり興味がなさそうな人がいい。」とかなり自分勝手な願望を持っていました。
私は今でも、「教会の奉仕のせいで犠牲になった私たち家族の時間を返してほしい」と、ふと思うことがあります。
もっと、教会以外の場所に家族で行ったり、何でもない時間を家族で過ごしてみたかったなあ、と。
結婚して、夫の親戚とお正月を初めて過ごしたとき、(夫は牧師家庭なのですが)何てのんびりして、あたたかいお正月なのだろう。これが家族団らんっていうものか…と妙に感激しました。
ああ、私はこういうものをずっと求めていたのだな、と感じたのです。
続きます