一方的に与えられる、という恵み 1
私が教会に行けなくなり、奉仕もできなくなって、心も体も疲れ切っていた頃、あるクリスチャンのご夫婦が、私のことをとてもよく気にかけてくださいました。
しょっちゅう夕ご飯に呼んでくださったり、美味しいものを食べに連れて行ってくださったり。私の調子が悪くて外へ出られない時にはおかずを届けてくださったり。食べ物だけでなく、ちょっとした草花を持たせてくださったり。(頂いた花を一人暮らしのアパートに飾ると、本当に心が慰められました)
ここには書ききれないくらい、沢山の物や、思い出や、気持ちをそのご夫婦から頂きました。
子どもがいないご夫婦だったので、きっと私を本当の子どものように可愛がってくれたのだ、と思います。
私は一方的に与えてもらうだけで、何もお返しができない。そのことを申し訳なく思いつつ、当時の私は、ただ受け取ることで精一杯でした。
それまでの私は、基本的には人生は「ギブ&テイク」だと思っていました。
私の家は「働かざる者食うべからず」という方針でしたので、何かを得たいなら、それ相応の働きをしなければならない。という考え方が普通でした。
それはそれで、きちんとした大人になるために大切なしつけだったと思うのですが、それゆえ、私は「(勉強や家の手伝いを)ちゃんとしないと認められない」「頑張らないと褒めてもらえない」「いい子にしていないと愛されない」という価値観をどんどん自分の中で確立させていったように思うのです。
実際には、父も母も、私の存在自体を愛してくれていたのだと思います。でも、私はそれを感じて受け取ることができませんでした。
学校で賞をとったり、良い成績を納めたり、いい大学に進まなければ自分はダメな子と思われるのではないか。
家の手伝いをちゃんとして、教会に毎週行って、親の言うことを素直に聞かなければ、自分は愛されないのではないか。と心の奥底ではずっと思っていたのです。
続きます