クリスチャン2世がぐるぐると考える

クリスチャン2世の視点から結婚・信仰継承・両親との関係などについて書いています

ありのままの姿で愛されること 1

少し色々なことがあって、久しぶりの更新になりました。


「神様はありのままの姿を愛してくださる方だ」ということを、教会ではよくメッセージなどで聞くと思います。

でも、私にとっては、そのことを頭ではなく心で理解するのは、とても難しいことに思えました。

 

言葉の意味は分かるのです。

キリスト教は、本人の努力や善行によって救われるのではなく、ただ、神様の一方的な恵によって救われるものだ、ということも知っています。

 

でも、能力や、行いではなく、私の存在自体を愛してくださるって、一体、具体的にはどういうことなのだろう。

私の両親、特に母親は、私の行いや能力を評価し、愛情の基準にする傾向がありました。もちろん、100%そうだった、というわけではないと思いますが(思いたいですが)私は、母の愛情を得るために、いい子でいることを目指し、勉強をしたり、教会へ行ったりしていた部分があったと思います。

ですから、ずっと、能力や行いによって評価され、自分の価値をそこに見出していた私にとっては、まず、「ありのままの姿」ということ自体が、正直、ピンとこないというか、イメージが湧いてきませんでした。

 

しかし、「ありのままの姿で愛される」ということが実感できない限り、自分自身も誰かのことを「ありのままの存在として愛する」ことができないのではないか。

結局、相手の能力や行いにしか価値を見出すことができないのではないか。

自分には本当の愛がないのではないか。

 

そう思ったとき、恐ろしいような、ぞっとするような、悲しい気持ちになりました。

 

 

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